LOGINシンガポール向けの最終サンプル評価で、改良した三種類のポーチをテーブルへ並べた。高湿度対応の生地、裏側を厚くした引き手、現地の棚幅に合わせて五ミリ縮めた外寸。
前回より評価はいい。ただ一つ、沙耶が橙へ赤い反対票を入れた。「現地の照明だと色が沈みます。青と灰を先に出した方がいい」 悔しくて、実店舗の照明データを出す。シミュレーション上は許容範囲だった。「数字ではね」 沙耶は橙の試作品を窓際へ持っていった。「私は現地の棚を知ってます」「でも、この色は残したいです」 言ってから、それだけでは仕事の理由にならないと分かる。 景都は危機対応側の席にいるが、口を挟まない。 私は試作品を手に取り、角度を変えて見る。「本投入は青と灰にします。橙だけ、通常の二割で店頭テストを続けさせてください。売れなければ切ります」「二割?」「それ以上は要りません」 沙耶はもう一度光へかざし、頷いた。「それなら賛成」 会議シンガポール向けの最終サンプル評価で、改良した三種類のポーチをテーブルへ並べた。高湿度対応の生地、裏側を厚くした引き手、現地の棚幅に合わせて五ミリ縮めた外寸。 前回より評価はいい。ただ一つ、沙耶が橙へ赤い反対票を入れた。「現地の照明だと色が沈みます。青と灰を先に出した方がいい」 悔しくて、実店舗の照明データを出す。シミュレーション上は許容範囲だった。「数字ではね」 沙耶は橙の試作品を窓際へ持っていった。「私は現地の棚を知ってます」「でも、この色は残したいです」 言ってから、それだけでは仕事の理由にならないと分かる。 景都は危機対応側の席にいるが、口を挟まない。 私は試作品を手に取り、角度を変えて見る。「本投入は青と灰にします。橙だけ、通常の二割で店頭テストを続けさせてください。売れなければ切ります」「二割?」「それ以上は要りません」 沙耶はもう一度光へかざし、頷いた。「それなら賛成」 会議が終わり、廊下へ出る。 私が会議の感想を聞く前に、景都が「俺に聞く?」と言った。「今日は聞きたい」「よかった。全部残すって意地張るかと思った」「そこまで子どもじゃない」「引き手三ミリで俺に怒ってた」「あれは景都が正しかったから腹が立ったの」 二人で笑う。 そこへ沙耶が追いつき、橙が売れたら謝る、売れなかったら私が謝る、という話になった。 握手をして別れる。 会社へ戻ると、後輩が橙のサンプルを見て「これ残ったんですね」と嬉しそうに言った。「二割だけ」と返し、テスト数量を共有表へ入力する。橙の欄だけ数字が小さい。惜しい気持ちは残ったが、入力した二割を消そうとは思わなかった。 帰宅前、サンプル棚の照明を一段落として橙を見た。昼間より沈んで見える。沙耶が言ったことは、やはり間違っていなかった。それでも二割だけ残した判断まで間違いとは思わなかった。 帰りの電車で、橙の試作品を膝に置いた。二割という数字は自分で決めた。愛着は残っている。それでも、全部残すか
海外テストの出発日が正式に決まった。三週間後。現地滞在はまず五日間で、結果次第では長期展開の話もある。 最終契約の打ち合わせで、沙耶が危機対応の条件を一つ追加した。現地で問題が起きても、商品担当が単独で会見へ出ず、久世とmellow noteの広報確認を入れる。私だけではなく担当者全員、LATTICEにも同じ条件だという。 景都は資料を読み、妥当だと頷いた。「珍しく意見が合いましたね」 沙耶が言うと、景都は「仕事だから」と真顔で返す。先に笑ったのは私だった。 会議の最後、沙耶から現地の連絡先一覧を渡された。一番上が彼女自身、その下がmellow note、LATTICEはさらに下にある。「何かあったら順番どおりに、とは言いません。ただ、深見さんが全部止めようとしたら私にも連絡してください」「信用されてないね」「実績がありますので」 景都が何も返せず、私はまた笑った。 会議後、エレベーターで沙耶と二人になった。数字が一階へ近づく間、彼女は資料を鞄へしまいながら、これで仕事上はしばらく終わりだと言った。 扉が開く直前になって、こちらを見ないまま続ける。「深見さんを、あまり待たせない方がいいですよ」「またその話ですか」「最後です。あの人、待つのが下手だから」「知ってます」「ならいいです」 ロビーへ出ると、景都が数歩離れた場所で電話をしていた。こちらに気づいても近づかない。沙耶との話が終わるまで、その位置から動かなかった。 車寄せでは運転手が傘を開き、誰かを待っている。以前なら、景都も電話を切った瞬間にこちらへ来て、次の予定を確認したかもしれない。 今日は私が歩き出すまで待っていた。 電話が終わり、目が合う。私は先にロビーの自動ドアへ向かった。景都が追いつく。「腹減った?」 最初に出てきたのがそれだったので、少し笑う。「かなり」 近くのサンドイッチ店へ入った。出発まで三週間しかないのに、話したのはパンの具と明日の会議の時間くらいだった。 サンドイッチ店では、景都がいつもの
記念会の翌日、ネットには沙耶と景都が同じ会場にいる写真が出た。少し後ろには私も写っている。見出しは〈深見家と久世家、再び接近か〉。 灯は訂正を出すか聞いたが、断定記事ではないので放っておくことにした。気にならないわけではない。ただ、すべてを訂正して回ることにも疲れていた。 昼、沙耶から〈昨日はすみませんでした。母には私から話します〉と来る。 〈大丈夫です〉まで打ち、消した。 代わりに、〈私も驚きました。でも、久世さんの責任ではないと思います〉と送る。 夕方、沙耶が追加契約の署名で会社へ来た。手続きが終わっても席を立たず、「昨日、悔しかったです」と言う。 断られたことではないらしい。「私はずっと、彼があなたを選んだから私が選ばれなかったと思ってたんです」 沙耶はペンを机へまっすぐ置いた。「でも、自分から何も言ってなかった。選ばれるかどうかばかり見て、自分が何を選ぶかは口にしてなかった」 私は契約書の自分の署名を見る。少し右上がりの字だった。「私も、似たことしてました」「知っています」「そこは言わなくていいです」 二人で笑う。 沙耶は鞄を持ち、「私は深見さんを選ばないことにします。今さらですけど」と言った。「私に宣言するんですか」「負けを認めるみたいで嫌なので、そういう意味ではありません」 ドアの前で一度振り返る。「水城さんも、選ばれるのを待つだけにしない方がいいですよ」 一人になった会議室で、契約書をもう一度見る。 名前を書くのは簡単だ。恋愛になると、同じ一行が急に書けなくなる。 沙耶が帰ったあと、会議室の椅子を元へ戻した。彼女が座っていた場所だけ机の上に細い水滴の輪が残っている。ティッシュで拭きながら、自分の返事を急に作る必要はないと思う。沙耶が今日一つ決めたからといって、私まで同じ速度で進む必要はない。ただ、決めないことを選び続けている自分へは、そろそろ目を向けた方がよさそうだった。 夜、景都から〈今日はありがとう〉と来た。何の礼か聞くと、昨日、言いすぎるところを止めてくれたことへの礼
久世ホールディングスの創業記念会に、mellow noteも招かれた。仕事上の付き合いだと思っていたのに、会場へ着くと取引先だけでなく久世家と深見家の親族までいる。「聞いてないんだけど」 景都へ小声で言うと、彼も会場を見回した。「俺も。父が来るとは聞いてない」 沙耶は壇上の挨拶を終えるとすぐ来て、家の会になっていることを自分もさっき知ったと謝った。珍しく、本当に困った顔だった。 そこへ年配の女性が近づき、沙耶の肩へ手を置く。「景都さんも来てくださったのね。沙耶とは仕事ばかりで、昔のお話も進まなくて」 空気が止まった。 縁談のことだと分かる。 沙耶が止めるより早く、景都が「その話はありません」と言った。 女性は昔の話だと笑って流そうとしたが、景都は重ねた。「今もありません。沙耶さんと結婚するつもりは、昔も今もないです」 胸が強く鳴る。沙耶の顔も硬くなった。 景都がさらに説明しようとするので、私は袖へ指を掛けた。「そこまででいい」 口が止まる。 女性は気まずそうに別の客へ向かった。 残った沙耶が深く息を吐く。「本当に容赦がないですね」「悪かった」「謝るなら、昔の縁談の時に言ってください」「正式に来る前に断ったはずだ」「そういうところです」 二人のやり取りがあまりに昔からの知人らしく、少し笑いそうになる。 沙耶がこちらを見た。「今のを見ても、彼があなたの前で弱くなると思います?」「弱くなるというより、雑になることはあります」 景都が何か言いかける。「前よりはまし」 今度は沙耶が笑った。 その後、会場では、何人かから形式的な挨拶を受けた。〈お久しぶりです〉と言われても、誰だったか思い出せない人もいる。結婚していた頃なら、失礼がないよう景都へ小声で確認していた。今日は名刺を受け取り、分からない人はそのまま分からないままにした。知らないことを恥ずかしがらずに済むだけで、会場でも前ほど息が詰まらなかった。
翌朝、灯がまとめた数字を久世側へ送った。私が映った記事の閲覧数は確かに高い。けれど商品ページへの流入はむしろ増え、購入中止や取引停止へつながった形跡もない。海外では私生活の記事自体、ほとんど読まれていなかった。 会議室でその数字を示すと、沙耶は黙ってグラフを追った。「現地で同じとは限りません」「だから、問題が出た時に止めてください。出る前から私だけ消すのは違います」 広報責任者が視線を往復させる。私は商品サンプルを一つ手元へ寄せた。「私が降りれば記事は静かになるかもしれません。でも、それで『元夫との関係があるから外された』と書かれたら、それが事実になる。それに、私はこれを作った人間です。現地で使われるところまで見たい」 最後は数字ではなかった。言ってから、感情論だと切られるかと思った。 沙耶はもう一度資料を上から見直し、画面を閉じた。「担当はそのままにします。ただし私生活の質問が増えたら、広報はこちらで止めます」「そこはお願いします」 会議が終わり、ほかの人が先に出る。廊下で沙耶が追いついてきた。エレベーターへ乗る直前、広報責任者が追いかけてきて、修正版の体制表を渡した。現地担当の欄に自分の名前が戻っている。紙の端はまだプリンターの熱を持っていた。「自分が外される話になると、急に強いですね」「そうですか」「もっと早く、そのくらい言えばよかったのに」 誰に、とは聞かなくても分かった。「昔は言えなかったんです」「今は?」「言える時もあります。言えない時もあります」 沙耶が笑う。「面倒ですね」「自覚あります」 ビルの出口で別れる前、今度は私から聞いた。「久世さんも、景都に言えばよかったんじゃないですか。好きだったなら」 仕事の顔が一瞬だけ消えた。「言って、選ばれなかったら困るでしょう」 それだけ残して、沙耶は車寄せへ向かった。彼女が車へ乗るのを見送り、私は温かい体制表を鞄へ入れず、駅へ向かう間も、手に持っていた。 会社近くのコンビニでブラックコーヒーを買った。結婚してい
海外テスト開始の一週間前、久世側から新しい条件案が出た。現地で問題が起きても、商品企画の責任者である私を前面には出さず、久世の広報が一括対応するという。 資料の私の名前の横には〈メディア対応対象外〉とある。 誰が希望したのか聞くと、沙耶自身だった。景都は関わっていない。 その事実にほっとした自分が、少し嫌だった。 沙耶は現地メディアの記事一覧を画面へ出す。番組事故、景都との関係、復縁説。商品より恋愛の見出しが並んでいた。「あなたが出れば、商品よりこちらが聞かれる。プロジェクトとしては不利です」 理屈は分かる。 だから余計に腹が立った。「提案としては受け取ります。でも、私抜きで決定しないでください」「感情的になっています?」 頬が熱くなる。「なってます」 そこだけは否定しなかった。「でも、私が出ることで本当に損失が出るなら、数字で見せてください。過去記事があるから外す、だけなら納得しません」 会議室の空調が低く鳴る。 沙耶はしばらくこちらを見たあと、資料を自分の側へ引いた。「分かりました。数字を出します」 帰りの電車で、景都へ電話しようとしてやめる。今日はまだ愚痴にする段階ではない。灯へ資料を送り、明朝までに広報データを出してもらうことにした。 スマートフォンを閉じる前、景都から〈今日は会議だった?〉と届く。 〈うん。ちょっと腹立った〉 すぐに〈聞く?〉。 〈まだいい。自分で話してみる〉 既読がつき、それ以上は来なかった。 窓へ映る自分の顔は、会議中より疲れている。正しいことを言い返せても、傷つかないわけではない。 担当から外す案が一度でも現実になったことが悔しい。 それでも、担当から降りる気にはなれなかった。 会社へ戻ると、灯がまだ席に残っていた。送った資料を開き、問い合わせ件数と記事流入のデータを拾い始める。私はジャケットを脱ぎ、椅子の背へ掛けた。怒っているのか怖いのかと聞かれ、どっちも、と答える。灯はそれ以上慰めず、「じゃあ数字で殴ろう」とキーボー







